龍生(47)176cm / 68kg
大宮 萬天堂
埼玉県(出張性感マッサージ)
08/06 23:00
量子力学には、こんな考え方がある。
「観測するまで、現実は確定しない」
つまり、世界は見る者によって形を持つ。
この理論を突き詰めると──
「誰も見ていなければ、月すら存在しないかもしれない」
そんな不思議な世界を、ニールス・ボーアという物理学者は提唱していた。
ある夏の夜、
不本意な転勤を命じられ、深夜バスで長距離を移動した。
バスを降りたのは、夜の9時。
湿った空気に汗が滲み、
重たいスーツケースを引きずりながら、
知らない街を歩いた。
ふと見上げると、空には満月。
──美しく、そして静かだった。
その光に照らされて、
地面に「二つの影」が映っていた。
「え……なんで?」
そう思った瞬間、影はひとつに戻っていた。
職場は最悪だった。
埃と暗がりと、黙った人たち。
けれど、数日後には少し心許せる仲間ができた。
昼休み、ふとした会話の流れで、
僕は彼に打ち明けた。
「実は…会社を辞めようと思ってる」
「システムを作って、自分の力で生きていきたい」
「怖いけど、それが夢なんだ」
彼は興味深そうに聞いてくれた。
嬉しくなって、僕は思っていることを全部話した。
でも翌日、会社に行くと、
空気が変わっていた。
「お前、なんか変なことやってるんだってな」
「お前と仲いいあいつが言ってたぞ」
――裏切られた。
信じていた人に。
夢を笑われたようで、
心のなかにあった火が、急に小さくなっていった。
その日の帰り道、
なぜか街が、いつもより暗く感じた。
空を見上げても、月がなかった。
それから何日も、月は姿を見せなかった。
なのに不思議と、
それを「おかしい」と思うことすらできなかった。
ある日、会社のパソコンで量子力学を検索した。
その中に、こう書いてあった。
「月は、誰も見ていなければ存在しない」
ハッとした。
もしかしたら、
僕の存在が薄れているから、月が消えたんじゃないか?
胸がざわついた。
このままじゃ、僕は本当に消えてしまうかもしれない。
あの夜のことを思い出した。
満月に照らされて、二つの影があったあの道を。
あそこから、何かが始まっていた気がした。
僕はスーツケースを引いたあの道を、もう一度歩き出した。
ひとつ、またひとつと歩を進める。
するといつの間にか、
左手に、小さな手の温もりがあった。
驚いて見ると、
そこにはおかっぱ頭の、小さな女の子がいた。
彼女は僕を見上げて言った。
「思い出した?」
「まだ間に合うよ、自分を信じて」
その瞬間、
胸の奥で何かが弾けた。
波のような衝撃が、全身を駆け巡る。
次に顔を上げたとき──
空には、あの日と同じ、いやそれ以上に美しい、
大きな満月が浮かんでいた。
僕の影は、ちゃんと地面に伸びていた。
もうひとつの影は、
いつの間にか消えていた。
それから数ヶ月後、
僕は転勤先を離れ、
自分の場所へと戻ることができた。
あの時、自分の存在が揺らいでいた僕は、
いま確かにこの場所に立っている。
誰に笑われても、何を言われても、
僕は僕を“観測”し続ける。
信じて、見つめて、照らし続ける。
今夜も、
僕の頭上には、あの夜と同じように
静かで、
大きくて、
美しい月が、ちゃんと浮かんでいる。
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